いつもいかめしい顔で、身だしなみにもあまり気を使っていないイメージのあるベートーヴェンには、お金に余裕があって悠々自適に暮らしていたというイメージはありませんよね。
でも、実際はどうだったのでしょう?

今回はベートーヴェンの収入について考えてみたいと思います。
結論から言いますと、「運命交響曲」や「田園交響曲」の初演も終わって知名度も上がり、演奏会や創作に忙しくしていた1809年以降(ベートーヴェン39歳以降)の年収は、現在価値の日本円換算で約1500万円~5000万円程度ではなかったかと予測されています。
皆さんの予想以上に、ベートーヴェンは高額所得者であったことに、びっくりしませんか。
確かに当時の、大学教授1000万円、宮廷音楽家600万円、工場労働者300万円と推定される年収と比べてみても、数倍から十数倍の大変高額な年収をベートーヴェンは得ていたと思われます。
※当時のウィーンの通貨はフローリンが使われており、1フローリンを現在の購買力に換算すると、おおよそ5000円~15000円程度と言われています。ここではわかりやすく1フローリン=1万円と換算しました。従ってフローリン表記と日本円での万円表記は同じになりますので、日本円表記に統一しました。
当時、宮廷につかえて収入を得る宮廷音楽家ではなく、ベートーヴェンのようなフリーランスの音楽家の収入源は以下のようなものでした。
①貴族の子弟へのピアノレッスン
②演奏会収入
③出版社での楽譜出版
④貴族への作品献呈
しかし、いずれの収入も必ずしも安定したものではなく、楽譜の出版にしても当時は著作権制度というようなものはなく、一回限りの売り切りでしたし、貴族への献呈もベートーヴェンのような有名人にしてもソナタ6曲で150万円、交響曲のような大作でも500万円程度と、宮廷音楽家の収入を大きく上回る収入を安定的に得るのは難しかったようです。
確かにこれだけでは、上述したベートーヴェンの年収と大きくギャップがありますが、実はそこを埋める彼独自の収入源があったのです。
それは、ウィーンの貴族からのベートーヴェン個人への年金支給でした。
1808年にベートーヴェンに他の宮廷から、多額の年金と宮廷楽長としての地位を約束した移籍話が持ち上がり、当時ウィーンでの経済状況に不満を抱えていたベートーヴェンはこのオファーを真剣に受け止め受け入れる決意を固めたそうです。これを知りベートーヴェンの才能を失うことを恐れたウィーンの貴族たちが、彼をウィーンに引き留め創作に専念させるため、1809年年金支給の契約を結んだのです。
その内容とは、創作に専念し他国へ移住しないことを条件に、3人の貴族(ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵)が、各々1500万円、700万円、1800万円、計4000万円の年金を生涯支払うというものでした。
残念ながら、キンスキー侯爵が1812年に死亡、1813年にロプコヴィッツ侯爵が破産して年金額は減りましたが、それでもルドルフ大公は生涯にわたって1500万円をベートーヴェンに支払い続けました。
これだけでも、宮廷音楽家の収入を大きく上回り、ベートーヴェンはウィーンに定住し創作を続けることができたのです。
上記のように、収入は確かに多かったようですが、その分随分出費も多く借金も常に抱えていたようで、日常的には富裕層の暮らしからは遠かったようです。
現在その理由としてまずあげられるのは、住居にかかわる出費の多さです。部屋代400万円/年の部屋を同時に3~4つ借り、引っ越しも生涯60~90回したと言われています。
部屋代だけで年間1200万~1600万円になります。
他に、甥のカルルの養育費や教育費、親権をめぐる裁判費用等の負担していましたし、自身の難聴の治療費や看護師への支払いも家計を圧迫したようです。
以上、収入は多かったが、常にお金に困っていたベートーヴェンですが、決して娯楽や贅沢のために散財していたわけではありませんでした。
部屋を複数所有したり引っ越しを繰り返したのも、気まぐれではなく、音楽創作にふさわしい内部、外部の環境を求めてのことと思いますし、耳が聞こえずらくなったため音が少しでも聞こえやすい部屋の構造、環境を求めてでもあったことと言われています。
ベートーヴェンの場合、我々にとっては多額と思われる収入でも、彼の考える音楽ファーストを維持するためには、支出とちょうど良いバランス(否、不足気味)と考えていたのかもしれません。

