「アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(Antonín Leopold Dvořák、1841年9月8日 – 1904年5月1日、チェコ・プラハ近郊生)」

ドヴォルザークの生涯を知ると、大音楽家なのに本格的な音楽教育を受け始めた年齢がとても遅いことに驚きます。16歳(1857年)になって、プラハの音楽学校(後のプラハ音楽院)に入学したのがその始まりです。
それまでは、肉屋の父親の後継ぎとなるべく、肉屋の修行に明け暮れていました。なんと1856年にはボヘミアの肉屋組合から正規の修業証書を貰っていますから、本気で肉屋さんを継ぐつもりだったようです。
そんなドヴォルザークが突然音楽学校に入学したのですが、なんと2年後の卒業時には2番の成績をとり、卒業後すぐにプラハのオーケストラのヴィオラ奏者に採用されたのですから、もともと音楽の素養、情熱は人一倍有していたことは間違いないようです。

そして、オーストリア政府の奨学金制度にも応募し1875年から連続して数年受賞者に選ばれたと言いますから、その実力もローカルなものではなく、音楽の本場においても認められたことを意味します。
また、その時の審査員であった、当時高名な音楽評論家であったハンスリックや大作曲家のブラームスとの生涯にわたる交遊はこの時から始まります。


ドヴォルザークが大音楽家へと成長していった理由として、自身の才能、有力な交友関係の他に忘れてならないのが、彼が異常なほどの鉄道ファン、いわゆる鉄オタであったことを挙げたいと思います。
鉄オタになったきっかけは、彼が8歳の時、故郷の村に初めて鉄道が開通し、走る蒸気機関車を見た時から始まったと言われています。

それからは、単に見るだけでなく、走行音、型、車両番号、時刻表、各駅の通過時間へと興味が拡がり、しまいには通過する運転手の名前まで覚えていたと言いますから尋常では有りません。
彼の鉄道への興味は生涯続き、どこへ行っても鉄道の駅の近くに家を探して住み、毎朝散歩するときはゆっくり機関車を眺めることを日課としていたそうです。作曲に行き詰まると散歩に出かけ、汽車を眺めて帰ってきたとも言われています。

ドヴォルザークの時代、交通事情はとても悪かったにも関わらず、彼はドイツ国内は勿論英国への度々の訪問、更には50歳代になってもアメリカ大陸に滞在し様々な情報を獲得するとともに、キャリアをグローバルに拡大することで知名度を上げ、大作曲家としての地位を築いていきました。
なぜそんな不便を厭わなかったかと言えば、彼が、鉄道に乗ること、見ることを楽しむ鉄オタだったから、と考えれば納得しませんか?
ドヴォルザークが鉄オタではなかったら、もちろん音楽家の一人として名は遺したでしょうが、今のように誰もが知っている大音楽家にはなっていないと思うのですがどうでしょうか?
木山音楽教室にも、たくさんの鉄オタの生徒さんがおられます。そんな皆さんは、大音楽家への可能性を秘めているのかもしれませんね。鉄道を通じての様々な喜びを、演奏や音楽に反映させ、自身の視野の拡大、キャリアアップへと発展させていかれることを願うばかりです。