音楽エッセイ|モーツァルトと旅

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart、1756年1月27日 – 1791年12月5日、オーストリア)」

クラシック界のスーパースターであるモーツァルトほど、あらゆる側面から研究され、語り尽くされている音楽家はいないのではないでしょうか。
伝記にしても、年代ごとの記述は勿論、最近では月ごとにまで言及され、近い将来には「モーツァルト日記」なるものも出版されるかもしれません。

特に、幅広く音楽を学ぶための修行として、又各地の有力な諸侯貴族に才能を披露して支持・就職へとつなげる活動として、18世紀のヨーロッパ中を巡ったモーツァルトの旅については、折々に家族、友人に宛てて書いた膨大な手紙が残っていることも有り(一説には400通以上とも)、詳細な研究、調査がされています。

モーツァルトの生涯は35年10ヶ月と9日(13097日)で、旅行期間は10年2ヶ月と28日(3720日)と言われていますから(誰が調べたんでしょうか?)、生涯の約30%を旅の空の下で過ごしていたことになります。

最初の旅は、6歳になる直前に父と姉と一緒に行ったミュンヘン旅行に始まり、ドイツ、オーストリアは勿論、フランス、イタリア、イギリス等々、ヨーロッパの主要都市を巡っています。
今回のブログでは、その中でも、1777年9月から1779年1月にかけて行われた、マンハイム・パリ旅行について紹介したいと思います。

モーツァルト21歳から22歳にかけて行われたこの旅行では、モーツァルトの人間としての成長と音楽家としての自覚が、他の旅行の時以上に促され人生の転機となったのではないかと思います。

この時は、初めて母アンナ・マリアとの二人だけの旅行でした。青年となったモーツァルトは、もはや神童としての商品価値を失い、行く先々で冷たくあしらわれ、マンハイム(ドイツ)でもパリでも就職活動に失敗しつらい日々を送っていたと言われています。

そうした中で、付き添う母親も日々の疲れや異郷での慣れない生活が身体にこたえたのか、重病で倒れてしまいます。そしてとうとう1778年7月には57歳でモーツァルトに看取られ亡くなってしまいました。

母アンナ・マリア

この時モーツァルトは、父とザルツブルクの友人に宛てて2通の手紙を書いています。

父には、母が亡くなったことは伏せて「母が重病であるから、神に一緒に祈ろう」と心の準備をさせるための手紙を書き、友人には母の死を知らせたうえで、モーツァルト自身が次の手紙で父に知らせるから、父を訪問して母の死を伏せて「(母の死の)心構えをするよう、力と勇気を与えてくれ」との手紙を出し、父と姉を慰め励ましてくれるよう頼んでいます。

この時の手紙が残っており、今読んでも悲痛な内容ですが、二十歳そこそこの青年にもかかわらず限りない優しさと配慮にあふれており、この時の試練がモーツァルトを人間として大きく成長させたことは間違いありません。

1778年に作曲された作品の中で、どうしても母の死との関連を思わざるを得ない曲が2つあります。

「ピアノソナタイ短調(K310)」「ヴァイオリンソナタホ短調(K304)」の2曲です。

どちらも短調の曲で、暗く激しい感情を持ちながらも限りなく優しいという特徴は共通しています。どちらも愛聴される方が多い、傑作です。

どうしても私たちは、これらの曲に母の死の前後のモーツァルトの心境が反映していると考えがちですが、残念ながら母の死と結びつけられる具体的な証拠はないそうです。しかし、モーツァルトの短調の曲は、ケッヘル番号のついた626曲の中でもたった19曲しかないにもかかわらず、この年に同時に2曲も作曲されたということは、モーツァルトの心が自然と母の鎮魂に向かっていたためと考えても良いと思いますがどうでしょうか?

以上の2曲に加えてもう一つこの時の旅行での収穫を挙げるなら、パリ旅行から帰った直後、ザルツブルクで作曲された「ヴァイオリンとヴィオラの為の協奏曲変ホ長調(K364)」でしょう。

当時のマンハイムとパリの音楽スタイルを見事に消化した傑作と評価されていますが、第2楽章のハ短調アンダンテのヴァイオリンとヴィオラの掛け合いが、モーツァルト母子のやりとりのように聴こえます。

この曲では、ヴィオラは半音高い調弦をするように指示されます。その為ヴィオラパートは半音低いニ長調で記譜されています。その結果ヴィオラの音は輝きを増しヴァイオリンと対等に渡り合うことになります。是非、注意深く聴いてみてください。

マンハイム・パリ旅行は、就職の失敗や母の死といったつらいことも多かったでしょうが、それを克服する中で、モーツァルトの人間性や音楽性に一段と成長が見られたのは我々にとっては幸いなことであったかもしれません。

1779年パリからザルツブルクに戻ったモーツァルトは、やむなく宮廷楽団に復職しますが、モーツァルトにとって、刺激の乏しい田舎町、そりの合わない大司教、尊大な貴族たちのなかで不満と忍耐の日々だったようです。

結局、パリから帰国後2年後にはウィーンへの移住定住を決意することになります。しかし、ウィーン定住後もモーツァルトは旅を止めません。結局1791年の死の歳まで旅を続けることになります。

モーツァルトの生涯にとって、旅こそが本質的なものであったと言えるのかもしれません。

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